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横浜地方裁判所 昭和36年(ワ)351号 判決

原告 中島梅野 外四名

被告 楠本好雄 外一名

主文

被告両名は、各自、原告中島梅野に対し金三七六、五〇五円、原告中島淑子、同中島照夫、同中島明子および同中島和夫に対し各金一八八、二五二円およびこれらに対する昭和三六年二月二四日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告らの被告両名に対するその余の請求を棄却する。

訴訟費用は被告両名の負担とする。

事実

(当事者双方の求めた裁判)

原告ら訴訟代理人は「被告両名は、各自、原告中島梅野に対して金一、二九五、七九四円、同中島淑子、同中島照夫、同中島明子および同中島和夫に対して各金七四七、八九七円ならびに右各金員に対する昭和三六年二月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告両名の連帯負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、被告ら訴訟代理人は「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求めた。

(原告ら訴訟代理人の述べた請求原因)

一  原告中島梅野は亡中島忠行の妻、原告中島淑子、同照夫、同明子および同和夫はいずれも亡忠行の子であり、中島忠行は昭和三六年二月二三日死亡した。

二  被告楠本好雄は表記肩書場所において鎌倉ヒロ病院を経営する医師であり、被告田中達は被告楠本に雇われて同病院に勤務する医師である。

三(一)  亡中島忠行は昭和三五年一一月二〇日、右鎌倉ヒロ病院で院長である被告楠本の診察を受けた結果胃癌の疑があるとして胃の切除手術を勧められ、同月二六日同病院外科に入院し、同月三〇日外科部長である被告田中の執刀により手術を行い、胃内部に三個のポリープを発見して胃の下部約三分の二を切除し、胃の残部を小腸に吻合した。

(二)  右手術後数日間は経過良好にみえたが、一週間後に流動食を摂るにいたつて嚥下困難を訴え、その後時々嘔吐していた。同年一二月二二日に同病院を退院したがその後も時々嘔吐を催し、且つ常に殆んど不消化のままの下痢を続け、翌昭和三六年一月末頃に肛門より出血したこともあり、次第に衰弱するので通院のまま七回にわたつて輸血を受けた。

(三)  同年二月八日胃のレントゲン検査の結果、空腸の末端に近い部分を胃に吻合していることが判明し、再手術を行うこととなつたので、同月一二日再び同病院に入院し、同月一八日慈恵医科大学の鈴木正弥医師執刀により再手術を行い、第一回手術による胃腸吻合部分を切り離して胃と十二指腸直下の小腸とを吻合したが、その後の手当の効なく同月二三日中島忠行は死亡した。

四(一)  胃の一部切除の場合は通常その残存部分と十二指腸直下の小腸とを吻合するのであるが、第一回手術においては胃の残存部分を空腸の末端即ち小腸全体の中央よりやや口側或は空腸曲から肛門側へ二メートルの部位に吻合していたもので、胃切除のうえこのような部位に吻合すると食物は殆んど消化吸収されることなく大腸に移行して排出され、体力の回復は望み得ず、次第に衰弱して死亡するに至る。亡忠行の死亡原因はこのような不適当な第一回手術にあるもので、これは手術施行者たる被告田中の医学知識の不足か技術の未熟かいずれにしても外科医師としての重大な業務上の過失によるものであり、被告田中はその過失により生じた損害を賠償すべきである。

(二)  被告楠本は前記鎌倉ヒロ病院の経営者として被告田中を使用するものであるから被告田中が右のように亡忠行に与えた損害につき賠償責任を負うべきである。

五(一)  右に述べた胃腸吻合部位の誤りが死亡原因ではないとしても、亡忠行は第一回手術後たえず下痢を続け、又下血をしたため全身衰弱をしていたが、この全身衰弱を招来したことおよび第二回手術の必要性が疑わしいのにこれを行い、又第二回手術の時期を誤つたことが亡忠行の死亡原因である。即ち、胃切除手術を受けた者が一般普通の食餌に耐用できるまでは担当医師は対症療法、食餌療法について充分に指導監督し、食餌については高カロリー蛋白食、低脂肪食等の指導が必要であり、貧血、下痢に対してはそれに対応する薬物の投与が必要であるのに、そのような対症療法、食餌指導が充分でなかつたため下痢を直すことができず、又下血に対して何ら有効な治療を施さなかつたため全身衰弱を来たしたものであるところ、第二回手術の必要性は疑わしく、又第二回手術を行うとしても全身衰弱状態にある時期にこれを行うことはその時期を誤つたもので、ために第二回手術の侵襲により死を招来したものである。

(二)  右の全身衰弱に対する対症療法が充分でなかつたことは第一回手術を行つた鎌倉ヒロ病院の外科主任である被告田中と同病院の内科主任である被告楠本双方の過失責任であり、且つ被告楠本にとつては被告田中に対する使用者としての責任も免れず、第二回手術の要否およびその時期の決定については前記鈴木正弥の意見も参酌されたが、被告田中は外科主任としてこれを決定した責任があり、被告楠本は被告田中および第二回手術の決定に参与しこれを執刀した鈴木正弥の業務上の過失についてその使用者としての賠償責任を免れない。

六(一)  中島忠行は生前横須賀渉外労務管理事務所に勤務し、昭和三五年一ケ年に支給された給与収入の手取総額は四五二、八五五円であり、又同人は旧海軍々人であつて普通恩給の支給を受け、その一ケ年の手取総額は一二九、四六八円であつた。そして同人は明治三六年七月二六日に出生し、昭和三六年二月二三日に死亡したのでその死亡時における年令は五七歳七月であり、昭和三〇年厚生省発表の第一〇回生命表によれば満五七歳の男子の平均余命は一七、〇七年である。亡忠行および原告らは右給与と普通恩給合計五七二、三二三円をもつて一年間の生活費に充てていたのであるから、これから亡忠行の一年間の生活費九五、三八七円を差引いた残額四七六、九三六円が亡忠行の死亡により失つた将来得べかりし一年間の純利益である。これに基いて亡忠行が生存を全うした場合の将来得べかりし利益をホフマン式(単式)によつて計算すると、四、三九二、三九一円となるが、普通恩給受給者である者が死亡すると受給額の半額が遺族扶助料として遺族に支給されるから、右金額から一七、〇七年分の遺族扶助料を差引くと三、二八七、三八二円となり、これが亡忠行が死亡によつて受けた損害額であつて同人はこの損害の賠償を被告両名に対して請求する権利があり、原告らはこの請求権を相続分にしたがつて原告中島梅野は一、〇九五、七九四円、原告中島淑子、同照夫、同明子および同和夫は各五四七、八九七円を相続したものである。

(二)  亡忠行は原告中島梅野の夫でありその余の原告らの父であつて、その死は原告らに対して非常な精神的損害を与え、その損害は各原告に対し金二〇〇、〇〇〇円に相当する。

よつて原告らは各被告に対しそれぞれ右相続した損害賠償請求額と慰藉料とを合計した請求趣旨記載の金額の損害賠償並びに右金員に対する本件不法行為発生の日の翌日たる昭和三五年二月二四日以降完済まで年五分の民事法定利率による遅延損害金の支払を求める。

原告ら訴訟代理人は、そのほか、被告ら主張の事実のうち、亡忠行の小腸が被膜に包まれていたこと、昭和三六年一月八日に痔による出血のあつたこと、亡忠行が同月一〇日病院に行つたこと、当時同人が貧血しかつ衰弱していたこと、一ケ月ほど輸血や注射により栄養の補給につとめたが衰弱するばかりであつたこと、第二回手術では腸および包裏の癒着が発見されたのでこれを剥離し、腸管を再切除し、胃と吻合したこと、第二回手術後には回復し難いほど一般状態が悪化していたことは認めると述べた。

(被告ら訴訟代理人の述べた答弁と主張)

一  請求原因第一、二項の事実は認める。

二  請求原因第三項(一)の事実は認める。同項(二)の事実中第一回手術後の経過が良好にみえたこと、原告ら主張の日に退院したこと、時ゞ嘔吐を催したこと、肛門より出血したこと、輸血をしたことは認め、その余の事実は争う。同項(三)の事実中原告ら主張の各日時にレントゲン検査をし、再び入院し、鈴木医師執刀により第二回手術を行い、手当の効なく死亡したことは認める。

三  請求原因第四項(一)の事実中、第一回手術によつて胃の残存部分を吻合した小腸の部位は空腸曲から肛門側へ約二メートルの部位であつた。中島忠行の死亡原因が被告田中の手術施行上の過誤によるものであるとの主張は争う。

四  請求原因第五項(一)の事実中被告らが亡忠行に対して食餌についての指導監督を怠つていたことおよび第二回手術の時期を誤つたことは否認する。

五  請求原因第六項(一)の事実中亡忠行の生年月日、死亡月日、平均余命は認める。同人の生前の勤務先、昭和三五年の手取総額、同人が旧海軍々人で普通恩給の支給を受けていたことは不知。数額は争う。同項(二)の事実は争う。

六(一)  通常人の場合の腸管はおおむね第二腰椎の高さに附着する横行結腸の腸間膜の下方にあつて、手術施行により開腹すると直ちにこれらの器管を見ることができるのであるが、亡忠行は内臓の状態が全く通常人と異り、小腸は胃の直下に大きな被膜(膜様包裏に包まれて一塊となり、横行結腸は通常人とは逆にこの包裏の下後方に圧迫され、腹腔の最下部の見えない位置にあつた。通常人の場合のビーロート第二法による胃切除術の吻合方法では十二指腸と空腸との境(卵内孔)から四、五〇センチ肛門側の無理のない部分の小腸に孔をうがちこの部分と胃の断端とを横行結腸の前又は後面において吻合し、他方胃より切り離された十二指腸はこれを縫い閉じる。ところが亡忠行の場合には内臓の状態が前記のようであつたから小腸と胃を吻合するため被膜の一部を縦切し、小腸を引きだし、横行結腸の前面から更にその上の包裏を越えて胃に届かせて吻合した。

(二)  右吻合において小腸の胃との吻合部分は空腸曲から約二メートルの位置であつたが、元来小腸の長さは六、七メートルあり、このような吻合を行つたために栄養摂取が不可能となり衰弱して死に至るものではない。

(三)  第一回手術の右吻合部位は空腸曲から測つて通常の場合に較べ多少長目であつたけれどもこれは全く亡忠行の特異な内臓状態に因るものであり、手術者たる被告田中の不注意によるものではない。第一回手術に際して前記包裏を全て切除して腸管の位置を正した後小腸の先端(口側)と胃との吻合を行うことも出来ないことではないが、前記吻合措置でも生命に支障なく、又手術は侵襲をできる限り小範囲に止めるべきものである建前からいつて被告田中の措置は妥当なものであつた。

七  亡忠行の退院に際し、被告両名は同人に対し通院して診察を受けるよう告げていたにも拘らず、同人は退院後二週間も通院せず、家人が薬のみをとりに来院し、漸く昭和三六年一月一〇日に同人が来院し、今まで調子が良かつたから通院しなかつたが一昨日から肛門より出血し、又下痢を伴うということであつた。被告田中の所見では出血は手術部位からでなく痔によるものであつた。しかし同人が貧血しかつ衰弱していたため即時入院をすすめたが応ぜず、以後約一ケ月間輸血七回、注射による栄養補給につとめたが衰弱するばかりであり、再三入院をすすめたが応ぜず、同年二月一二日に至り再手術を極力すすめた結果入院した。再手術の目的は腸管等の癒着又は前記包裏の圧迫による通過障害等の疑があり、このような衰弱の原因をなす疾患の除去にあり、第二回手術では腸および包裏の癒着が発見されたのでこれを剥離し、腸管を再切除して胃と吻合した。

胃切除のような外科手術は現在の医学の水準から要求される注意義務を完全に果しても患者の個別的体質や手術後の偶然の事情により危険を生じ得るもので、これを予見することは不可能な場合がある。中島忠行の死亡原因は同人の前記包裏の存在による第一回第二回手術の特異性、退院後の痔の出血、自宅での食事の不適当又は過食による大腸炎、癒着による障害および再入院の遅延など第一次の手術の際に予見し得ない事態が競合したため第二回手術後に回復し難いほど一般状態が悪化したことによるものである。

(証拠関係)〈省略〉

理由

一  被告楠本好雄は鎌倉ヒロ病院を経営する医師であり、被告田中達は被告楠本に雇われ同病院に勤務する医師であること、亡中島忠行は昭和三五年一一月二〇日右鎌倉ヒロ病院で院長である被告楠本の診察を受けた結果無酸症で胃癌の疑があるとして胃の切除手術を勧められ、同月二六日同病院外科に入院し、同月三〇日外科部長である被告田中の執刀により手術を行い、胃内部に三個のポリープを発見して胃の下部約三分の二を切除し、胃の残部を小腸に吻合したこと、亡忠行は右手術後退院前時々嘔吐していたこと、同年一二月二二日同病院を退院したこと、昭和三六年一月八日痔による出血があつたこと、亡忠行が同月一〇日同病院に行つたこと、当時同人が貧血しかつ衰弱していたこと、同年一月以降輸血や注射により栄養の補給につとめたが衰弱するばかりであつたこと、同年二月八日胃のレントゲン検査をしたこと、同月一二日再び同病院に入院し、同月一八日鈴木正弥医師の執刀により再手術を行い腸および膜様包裏の癒着が発見されたのでこれを剥離し、腸管を再切除して胃を吻合したこと、再手術後は回復し難い程一般状態が悪化していたこと、同月二三日右忠行は死亡したことはいずれも当事者間に争がない。

二  成立に争のない乙号各証、原告中島梅野本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第五号証、証人中島親孝の証言(第一回)によつてその真正な成立を認め得る甲第六号証の一の一、同号証の二、同号証の三の一、証人鈴木正弥、同菅原正敏(但し一部)同稲生綱政、同広渡幹治の各証言ならびに原告中島梅野、被告楠本好雄(第一、二回)、同田中達各本人尋問の結果の各一部、中島忠行のレントゲン写真であることに争のない検乙第一号証の検証の結果によれば次の事実が認められる。

「(一) 被告田中が執刀し、内科医である被告楠本も立会つた亡忠行に対する昭和三五年一一月三〇日の手術(第一回)により開腹したところその腸管等内蔵の位置、状態が通常人の場合と異り、小腸は胃の直下に被膜(膜様包裏)に包まれて一塊となり横行結腸はこの包裏の下方に圧迫されている異常な状態であつた。被告田中は胃の下方約三分の二の疾病部分を切除したのち、講学上のいわゆるビーロート第二法(胃切除後の残存部分を小腸の空腸曲より肛門側へ四、五〇センチメートルの部位に吻合する胃腸吻合方法)に従つて小腸との吻合をなさんとしたが小腸が包裏に包まれているためこの包裏を吻合に必要なできるだけ限度で縦切し、小腸の吻合位置を探索したけれども、右包裏の存在および内臓位置の異常のため空腸曲より四、五〇センチメートルの通常の吻合部位を明確には確認し得ないままほぼその位置に近いと思われた部位に胃の残存部分を吻合したが、実際にはその吻合位置は空腸曲より肛門側約二メートルの部位であつた。

亡忠行は右手術後入院中である昭和三五年一二月七日、九日には腹部膨満感あり、同月八日、一〇日には嘔吐したけれども、そのほかは異常のない経過で同月二二日には被告田中の診定により同病院を退院し、被告楠本は退院に際して亡忠行に対し通常の退院者に対すると同様往診が必要な場合には往診するから申し出るようにと告げたほか格別療養上の注意は与えず、被告田中も格別療養上の指示をしなかつた。

(二) 亡忠行は退院後自宅において療養し、間もなくほとんど消化し得ないままの下痢が始まり同月二四日頃には嘔吐したけれども、昭和三六年一月四日に診察を受けるまでは原告中島和夫(当時一二才)を二、三回同病院に薬を取りに行かせたのみで格別の症状の訴えはせず、被告楠本はその都度消化薬を与えた。昭和三六年一月四日亡忠行は退院後初めて同病院に赴き下痢症状であることを訴えた。同月八日肛門より痔のため相当の出血あり、同月一〇日被告楠本の診察を受けたところ著しく貧血して衰弱していたので輸血を受け、以後被告楠本より処置を受けた。痔による下血については被告田中がこれを診察したが格別の手当を要する病状ではないものと診定された。

その後亡忠行の全身衰弱状態は漸次悪化し、同月一七日には被告楠本は衰弱状態に対処するため輸血をする目的で入院をすすめたが、亡忠行は輸血だけが入院の目的ならば通院すると主張して応ぜず、以後二月一二日に同病院に再入院するまでほどんど連日通院して被告楠本より処置を受けた。その間亡忠行は時おり普通便の排泄があつたほかは退院後間もなくよりの下痢に引続いて下痢症状が続いたが、被告楠本は衰弱の主原因は下血にあるものと考え、右下痢にあるものとは考えなかつたので、下痢に対しては一応の数回の投薬をしたばかりで下痢症状を止めることに格別注意を払わず、貧血、衰弱状態に対しては主として輸血および栄養注射をもつて対処したが亡忠行の全身衰弱状態は悪化する一方で、再入院前後にはこの状態が続けば死に至るやもしれぬ状態であつた。亡忠行の食餌については被告楠本は塩分を採り過ぎぬようにして栄養をとるよう指示した程度であつた。

(三) 二月八日被告田中は退院後初めてのレントゲン検査をした結果第一回手術によつて胃を吻合した小腸の位置が前記のように通常の吻合位置より相当程度肛門側に寄つていることが判明し、同月一一日東京慈恵会医科大学附属第三病院外科医長である傍ら毎週定期に顧問として鎌倉ヒロ病院において同病院の業務に従事している訴外鈴木正弥医師の診断を受けた結果、第一回手術執刀者たる被告田中の再手術を必要とする旨の意見も徴し被告楠本、同田中及び右鈴木医師三者の意見が合致し、第一回手術による胃腸吻合部に生じた癒着による通過障害の除去および膜様包裏による腸管に対する障害の除去を主目的とし、第一回手術による胃腸吻合位置を是正することも目的として再手術を行うことに決まり、亡忠行は同月一二日鎌倉ヒロ病院に入院した。同月一八日鈴木正弥医師執刀により、被告田中を助手として被告楠本も立会つて第二回手術が施行されて癒着を剥離したほか胃腸吻合位置を空腸曲から肛門側へ約三〇センチメートルの部位へ直した。第二回手術後亡忠行は昏酔状態から覚醒しないまま同月二三日に死亡した。そのほか、被告楠本、同田中は亡忠行がもともと胃酸の乏しい体質であることを第一回手術前の診察により知つていた。又被告楠本は亡忠行に対し衰弱原因の調査と治療に万全を期するため昭和三六年一月一七日に入院をすすめたほか以後数回にわたつて入院をすすめ、一、二回は亡忠行の自宅まで病院の自動車を入院の為差向けたが、亡忠行は言を左右にしてこれに応じなかつた。」

証人菅原正敏の証言、原告中島梅野、被告楠本好雄、同田中達各本人尋問の結果のうち右認定に反する供述部分は採用せず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

三  そこで亡中島忠行の死亡原因について右認定の事実および当事者間に争のない事実に鑑定人稲生綱政の鑑定の結果、証人稲生綱政の証言を参酌して検討すると、亡忠行はもともと胃酸の乏しい体質であり、これに対して胃切除術を行つて胃の下部約三分の二を切除したため更に胃酸の減少を来たし、嚥下食物に充分な消化作用を及ぼし得ぬままそれが腸管に至り、そのためにいわゆる胃性下痢症状を呈し、この下痢症状を止めるための処置が充分でなかつたためこの症状が昭和三五年一二月二二日の退院後間もなくより昭和三六年二月一二日の再入院まで緩急の差こそあれほとんど間断なく継続したことを主原因とし、そのほか一時は痔疾による下血のあつたこともいくらか手伝つて全身衰弱状態が漸次進行し、これが悪化して昭和三六年二月一八日の再手術に充分耐え得る体力を喪つていたのに第二回手術を施行したためこの手術による侵襲を直接の契機として死亡するに至つたものと考えられる。

四  まず昭和三五年一一月三〇日の第一回手術において、執刀者たる被告田中が胃切除後の残存部分を空腸曲より約二メートル肛門側の部位に吻合したことが亡中島忠行の下痢原因、衰弱原因となりひいては死亡原因となつたかどうかについて按ずるに、前示鑑定の結果および証人稲生綱政の証言を参酌すると、胃切除術におけるビーロート第二法では胃残存部分を空腸曲より肛門側へ四、五〇センチメートル又はそれ以内の小腸の部位に吻合するのが通常であるが空腸曲より二メートルの部位よりも更に肛門側である小腸のほぼ中央部(小腸の全長は通常六メートル前後である)に吻合した場合、腸管の全吸収率は七五%、蛋白の吸収率は五〇%となるから、亡忠行の場合のように空腸曲より肛門側へ二メートルの部位に吻合したときにもその吸収率は八〇%弱程度は保持され得ると考えられるところ、生存に必要な全吸収率の限度は六〇%、蛋白吸収率四〇%とされ、小腸を切除し得る安全な限度は全小腸の二分の一までであるとされているから、亡忠行の場合の吻合部位が通常の場合より一、五メートル以上肛門側寄りでしたがつて吸収に参与し得る小腸の長さが通常の場合の長さよりもそれだけ短かくなつていても、このことによつては回復し得ないような下痢症状ひいては全身衰弱を招来することはないと考えられる。したがつて第一回手術による胃腸吻合部位を通常の吻合部位よりも一、五メートル以上肛門側にしたことが仮に誤であつてもかかる吻合部位の誤り自体と亡忠行の死亡との間には相当因果関係がないこととなるから、その誤が執刀者たる被告田中の過失によるものであるか否かを按ずるまでもなく、吻合部位の誤りのために亡忠行の死を招いたとの原告らの主張は理由がない。

五  次に亡忠行が前述のような原因で死亡するに至つた結果が、被告らが医師として要求される右以外の点についての注意義務を怠つたために惹起されたのか否か、即ち被告らの過失の有無について検討するに、前示鑑定の結果および証人稲生綱政の証言を参酌して考えると、

(一)  亡忠行の胃に発見されたポリープ(肉芽腫)は悪性の、癌に変化する虞のあるものであつたから医学上早期に切除すべきものとされており、第一回手術によつてこの胃ポリープを排するため胃の下部三分の二を切除したことは必要な処置であつた。そして第一回手続後の手術自体の経過は順調であつた(前示認定事実のように腹部膨満感および数回の嘔吐があつたけれどもこれは前示認定のような手術後の期間内の症状であるから手術後往々見られる術後経過的-一過的な症状であつて異状とするに足りぬものである。)が、亡忠行はもともと胃酸の乏しい体質であり、かかる体質の者に対して胃切除を行うときは、更に胃酸が欠乏してために下痢症状に至ることのあり得ることは充分予想されるところであり、加えて亡忠行の腸管等内臓の位置状況が通常人とは非常に異るものであつたため第一回手術に際しての吻合位置の決定に苦心し、その吻合位置も必ずしも明確ではなかつたのであるから、通常の場合と異つて事後経過に異状を来たすかもしれないことは手術後の治療に当る者は充分注意していなければならないことであり、このような場合には少くとも亡忠行が一般の食餌に耐用できるようになるまではこれを全面的に被護しその対症療法あるいは食餌療法について充分に指導監督し、その食餌について少くとも高カロリー、蛋白食、低脂肪食を摂るよう指導する注意義務があつたにもかかわらず、手術担当者或は以後の治療を担当する者として亡忠行の右状況を充分に知り、退院に際し事後の療養上の注意を与えるべき立場にあつた被告楠本、同田中はこれを怠り、被告楠本が単に亡忠行の退院の際に前認定のような注意を告げたのみで格別療養上の注意を与えず、昭和三六年一月一〇日以降亡忠行の継続する下痢症状を発見した後にも食餌については塩分を採り過ぎぬよう注意を与えた程度であつたため亡忠行の食餌不適当、過食により下痢を招き、これを止めることができなかつた。(前顕甲第五号証、第六号証の二によれば、現に亡忠行は昭和三六年一月一二日、一四日には禁じられるべきはずのテンプラソバを食しているほか、当時何でも食べていたこと、同月一四、二二日には過食していることが窺われる。

(二)  次に昭和三六年一月一〇日以降被告楠本が亡忠行の治療に当り、同日以降亡忠行から下痢症状を訴えられたのに対し、この下痢症状は前判示のように胃酸の乏しい者に対する胃切除手術後の症状として予期され得るものであり、この下痢症状が継続すれば全身衰弱を来たすことは明らかであつて、事実亡忠行の下痢は止らないまま衰弱が進行していることが認められたのであり、かつ胃切除術後のこの種の胃性下痢は薬物による徹底的な治療によつて大抵は治療し得るものとされているのであるから、被告楠本は内科担当医師として被告田中は第一回手術の担当者としての責任上直接又は被告楠本と緊密な連繋を保つて、亡忠行の衰弱の主原因が下痢にあるのではないかということに充分の注意を払い、前判示のような食餌についての指導監督を厳にするとともに下痢に対しては稀塩酸、貧血に対してはヨー酸ビタンB6および鉄剤などの充分な薬物の投与により下痢症状を止めるよう努めるべき注意義務あるところ、被告田中は退院後の処置を被告楠本に一任し、担当医師たる被告楠本は亡忠行の痔疾による下血はさして顕著でもなく特に対症療法を施す必要のない程度のものであつたに拘らず、亡忠行の衰弱の主原因が痔疾による下血にあるとの判断のもとに輸血および栄養注射によつて衰弱の回復をはかることに主眼をおき、亡忠行の継続している下痢に格別の注意を払わず不痢を止めるための薬物の投与が充分でなかつたため下痢症状を治癒し得ず、全身衰弱の主原因を除くことができなかつた。

(三)  次に執刀者鈴木正弥によつて行われた第二回手術の必要性について考えるに、第二回手術は前判示のように被告楠本、同田中及び右鈴木医師の協議の結果にもとづき胃腸吻合部に生じた癒着による通過障害の除去および膜様包裏による腸管に対する障害の除去を主目的とし胃腸吻合位置の是正をも考慮してなされたものであつて、第二回手術の主目的たる通過障害の除去については、開腹の結果広範な癒着があつたことは認められるけれども、亡忠行には通過障害の主症候たる腹部膨満感、嘔吐の連続的発生は前判示のように第一回手術後の経過的症状として異常でない時期に断片的にあつたのみで、そのほか右癒着が亡忠行に再手術を要するだけの通過障害をもたらしたことを認めることができないばかりか、むしろ亡忠行の症状は継続的な下痢症状により嚥下食物の通過が早すぎることを示していたものであつて癒着による通過障害の除去のための手術を必要とする理由に乏しく、又膜様包裏の存在が再手術を要するような障害をもたらしていたことを認めるに足る資料はない。

しかして、胃切除手術後の通過障害の除去を目的とする再手術においては、死亡率が三〇%近く非常な危険を伴うものであるから、担当医師としては通過障害の除去を目的とする再手術の採否については最大の注意をもつてその必要性の有無および施行するとすればその時期を決定し、被施術者死亡の危険を可及的に回避する注意義務があり、殊に亡忠行は当時全身衰弱が進行して手術に耐え得るかどうかについては特に慎重な検討を要する状態にあつたのであるからその注意義務は特に強く要求されていたところ、被告楠本、同田中及び鈴木正弘医師はこれを怠り、右のように亡忠行には再手術を必要とするだけの通過障害がなく、このことは通過障害にもとづく主症候が再手術決定前後に亡忠行に存していたか否かを検討すればこれを窺い得るのにこの診定を誤り、又胃腸吻合位置の是正については前判示のように第一回手術による吻合位置の異常はそれ自体では回復し難いような衰弱の主原因とはならないのにこれを手術によつて是正すべきものと考えて再手術が必要であると判断しこれを施行したものというべきである。(四)そうすると、被告楠本、同田中、訴外鈴木正弥の注意義務の懈怠により(一)(二)(三)の過失が重畳することによつて先に示した亡忠行の死亡原因を招来したものであると考えられるから、亡忠行の死亡は被告楠本、同田中および訴外鈴木正弥の過失によるものと言わざるを得ない。

されば、中島忠行の死亡は結局前判示のように被告楠本の過失および被告楠本の経営する鎌倉ヒロ病院の業務に従事する被告田中および訴外鈴木正弥の過失が重畳することによつて招来されたものであるから、被告楠本は自己の過失のためならびに被告田中及び訴外鈴木正弥の使用者として、また被告田中は自己の過失のため右不法行為によつて生じた損害を賠償すべき責任を免れない。

六  よつて、中島忠行の死亡により生じた損害額について判断する。

(一)  原告中島梅野は亡中島忠行の妻、原告中島淑子、同照夫、同明子および同和夫はいずれも亡忠行の子であること、亡忠行は明治三六年七月二六日に出生し、死亡当時五七才七月であつたこと、昭和三〇年厚生省大臣官房統計調査部発表の第一〇回生命表によれば満五七才の男子の平均余命が一七、〇七年であることは当事者間に争がない。そして成立に争のない甲第一ないし第三号証、証人中島親孝の第一、二回証言、原告中島梅野本人尋問の結果によれば、「亡忠行は原告中島梅野(明治四二年生)と昭和七年六月六日に婚姻して、昭和九年に原告淑子、昭和一三年に同照夫、昭和二〇年に同明子、昭和二三年に同和夫をそれぞれもうけ、若年の頃軽度の胸部疾患があつたけれども全治し、昭和三五年一一月にいたるまでは健康で、元海軍々人として当時は大佐の階級にあり、その後は死亡前数年来横須賀市追浜の駐留軍傭員として勤務し、昭和三五年中の給与手取総額は金四五二、八五五円であつたこと、駐留軍傭員の整理が行われ、亡忠行も昭和三六年三月中には解雇されることになつていたけれども、実弟である中島親孝の世話により就職のめどがついていたこと、亡忠行は恩給法による普通恩給の支給を受けておりその昭和三四年四半期の第一期分の交付額は三二、三六七円であり、したがつて昭和三四年一ケ年の交付額は金一二九、四六八円であつたこと、原告中島梅野は家庭にあり、同淑子は逓信病院に勤務し、忠行の死亡当時は収入がなかつたが現在は月収約一万四千円の収入があり、同照夫は新興通信工業株式会社において製図関係の業務に従事し当時一万円に近い月収があり、同明子、同和夫はそれぞれ高校生、中学生であること」が認められる。

そこでまず亡忠行の得べかりし利益の喪失による損害について考えるに、亡忠行が死亡せずになお生存を続け稼働するときは今後も毎年金五八二、三二三円(稼働による収入額と恩給支給額との合計)の収入があり、亡忠行の生活費はその家族の員数、原告中島照夫の収入、亡忠行の家族内における地位から考えて収入の七分の二をこれに当てていたものと考えるのが相当であるから、この生活費を控除した金四一五、九四五円(一ケ月平均三四、六六二円)の収益を挙げ得るというベきである。そして厚生省大臣官房統計調査部発表の第一〇回生命表によれば満五七年七月(忠行死亡当時の年令)の健康な男子の余命年数が一七、〇七年であることは当事者間に争のない事実であるところ、亡忠行が生存を続けて稼働し右収益を挙げ得る年令的限界は通常六五才までと考えるのが相当であるから、亡忠行が右年令に達するまでの七年五ケ月間における亡忠行の得べかりし収益は中間利息を年五分として複式のホフマン式計算法(最高裁判所昭和三七年一二月一四日判決、民集一六巻一二号二三六八頁参照)により算出すれば金二、六一九、二四九円となる。

(二)  次に過失相殺について検討するに、前認定のように、亡忠行は昭和三五年一二月二二日退院後間もなくそれまでなかつた下痢症状を発したに拘らず、昭和三六年一月四日に至るまで担当医師たる被告らにこれを通ずることなく放置したこと、および昭和三六年一月一七日には亡忠行の衰弱状態に対処するため被告楠本から入院をすすめられたが、亡忠行は通院を主張してこれに応ぜず、その後衰弱状態がいよいよ悪化したので被告楠本は衰弱原因の調査と治療に万全を期するため数回にわたつて入院をすすめ、一、二度は亡忠行の自宅まで入院のための自動車を差向けたけれども、亡忠行はその勧告を受け容れなかつたのであるが、亡忠行は退院後自宅療養中に病状の変化があつたのであるから、このような場合は直ちに担当医師に連絡してその処置を待つべきであつたのにこれを放置して一〇数日を徒過して衰弱を進行させ、又亡忠行の如き衰弱状況に対しては入院により衰弱原因を究明し、完全な食餌療法と薬物療法を施すことが必要であつたものと考えられるから、被告楠本の入院勧告に応じなかつたことは亡忠行が死亡するに至つた原因の全経過からみると、死亡原因を相当に助勢していることが認められ、亡忠行の右所為を勘案すると被告楠本、同田中が負うべき責任は二分の一とするを相当と思料する。

(三)  よつて右過失相殺を斟酌すると、亡忠行は被告楠本に対し金一、三〇九、六二五円の損害賠償債権を有したものというべく、忠行の死亡により原告らが右債権を相続したものであるが、亡忠行は恩給法による普通恩給の支給を受けていたのであるから忠行の死亡後は恩給法第七三条第一項第二号、第七五条第一項第一号により原告らは右年間支給額の半額を扶助料として支払を受けるものと認められ、この七年五ケ月分に相当する金額四八〇、一一一円は原告らが亡忠行の死亡によつて得る利益であるからこれを右相続額から控除すべく、控除後の額たる金八二九、五一四円を原告らの相続分に従つて分割すると原告梅野は金二七六、五〇五円、同淑子、同照夫、同明子および同和夫はいずれも各金一三八、二五二円となる。

(四)  最後に慰藉料について考えるに、原告らが一家の主柱たる忠行を失つたことによつて相当の悲嘆を受けたことは容易に推認されるところであつて、前認定の事実に亡忠行の死亡の経過情況等諸般の事情を考え合せるときはその受けた精神的苦痛に対する慰藉料は原告梅野については金一〇〇、〇〇〇円、同淑子、同照夫、同明子および同和夫についてはそれぞれ金五〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。

以上のとおりであるから、被告楠本および被告田中は各自原告中島梅野に対して右相続により取得した請求権の額と慰藉料との合計額である金三七六、五〇〇円、原告中島淑子、同照夫、同明子および同和夫に対して同じく各金一八八、二五二円および右各金員に対する本件不法行為発生の日の翌日たる昭和三六年二月二四日以降完済まで年五分の民事法定利率による損害金の支払をなすべき義務がある。

よつて、原告らの被告両名に対する請求は右の限度において正当であるからこれを認容し、その余は失当としてこれを棄却すべく、訴訟費用について民事訴訟法第九二条但書九三条第一項本文を適用、仮執行の宣言についてはこれを相当でないものと認めこれを付さないことにし主文のとおり判決する。

(裁判官 久利馨 若尾元 田中昌弘)

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